KEEP CALM AND EAT BANANA CHIPS

エセ・エッセイ

 

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 さっき買ったバナナチップスが美味しすぎて涙が出た。さすがオーガニック商品に特化した品ぞろえを謳うスーパーマーケットの商品だ。日本で売っているバナナチップスとは格が違う。カリッとした完璧な歯ごたえ、噛んだ瞬間鼻孔に広がるのはバナナの香り、これこそバナナチップス中のバナナチップス。素晴らしい。スーパーの一角で出会えたことに感謝したい。

 

 ベンチに座って一人こんなことを考えるくらいには、限界がきていた。突然アメリカに行こうと思い立ち格安航空券をとったのがおよそ三か月前のこと。英語も大して喋ることができず、方向感覚もなく、お金もなく、ないない尽くしのひとり旅二日目。人との交流がないせいで孤独を極めていたところ、名前をよく聞くアメリカの有名なスーパーマーケットを発見し、内装のデザインに感激し、嬉しがってうろうろ歩いていたところ見つけたのがこの運命のバナナチップスである。会計をしてくれたお兄さんの笑顔が素敵だったなぁなどと考えながらよく噛んでひとかけらを堪能し飲み込むと、少しだけ寂しさが紛れて元気になった。食べたら元気になれるバナナチップス。まるでドラッグ。リュックに片づける前にもう一つか二つか口に入れて立ち上がる。ユニオンスクエアを目指して道を下ろう。目が合って笑いかけてくれた人に笑顔を返すと急に楽しくなってきて、ゆるやかな坂道を小走りで駆け下りる。人とまともに会話していないせいで身体に溜まった二酸化炭素を吐き出すように、大きく息をした。

 

 ユニオンスクエアには、これまた名前をよく聞く有名な本屋がある。理解できない英語の本をすました顔で読めるほど暇ではないが、理解できない英語の本をすました顔で選ぶフリをする程度には暇だったので、背の高い本棚がところせましと立っているところに乗り込んだ。置いてある梯子に登ってその辺の本をめくっていると、なんだか自分がとても賢くなった気分になる。

 英語の文字をずっと見ていたらくらくらしてきた。本を選ぶフリをするのにも限界がきたらしい。分厚い本を棚に戻して梯子を下りる。背伸びをするのはやめようと圧迫的な本棚の森から抜け出して、明るいところに出た。ここには本だけではなく雑貨やCDも置いてあり、本も学術書ではなくて絵本や写真集が多そうだ。ふらつく頭を支えながらどうにか歩きまわっていると、レコードが並んでいるエリアにやってきた。

 箱にぎっしりと詰まったレコードを一枚ずつ物色して、気に入ったものを購入するのが私の夢だ。レコードプレイヤーを持っていないからいつもは物色するだけで終わるのだけれど、今日は夢を叶えることにした。さも音楽に詳しいかのような顔をして、すまし顔で箱の中のレコードを繰る。おおよそ千枚はあるだろうと思われるレコードの海。その一枚一枚が誰かの夢だ。そしてどれか一枚は私の夢。とっておきの一枚を見つけろ。段々と頭が覚めてきた。千の夢が私を目覚めさせる。

 いくつかの箱を渡り歩いて物色を続けていると、大きなバナナが目に入った。バナナの右下にはAndy Warholという文字が書かれている。中身は知らないけど、このジャケットは知っている。さっきのバナナチップスの味が口の中に甦った。きっとこれも運命だろう。お金がないとは言ったが、夢を買うのに三十ドルは高くない。

 

 次の日、また行くあてもなく宿を出た。適当に町を歩いていると、大きな紙袋を持ったおじいさんが私の目の前で石につまずいて、紙袋の中からオレンジやらリンゴやらが転がり出る。映画でしか見たことのない光景が目の前に広がって少しの間見惚れてしまったが、足元にオレンジが転がってきたところで我に返って、コロコロと転がる果物を拾い集めた。「多分これで全部だと思います」と拾ったものを渡すと、「ありがとう」と紙袋の底からバナナを一本取り出して渡してくれる。

「リンゴの方がよかったかな?全部一回地面に落としちゃったんだけど」

と言うので、「バナナが一番好きな果物です」と返事をした。

「ニューヨークには旅行で来たのかな?」

と会話を続けてくれたのが嬉しくて頷いた。人とまともに会話をしたのが久しぶりで、これだけで心が満たされていくのを感じる。

「せっかくニューヨークに来たなら、MoMAには行くべきだよ」

とおじいさんが名前を挙げたのは、ニューヨーク近代美術館だ。自分は何やらスペシャルな会員に登録しているから僕の名前を言ったら割引が適用されるはずだよ、と本当か嘘か分からないことをおじいさんは言い、自分の名前を言った。私も名前を名乗ると「話せてよかったよ」となぜか握手などではなくハイタッチを求めてきたので、手の平を合わせてさようならと手を振った。

 どうせ行くところも決めていなかったから、午後はニューヨーク近代美術館に向かうことにする。地下鉄を乗り継いで、観光客で賑わうタイムズスクエア周辺のエリアにやってきた。あまりの喧騒に初日で辟易として、以来訪れるのを避けていた場所だ。でもリュックにバナナチップスとさっきもらったバナナ、あと宿に置いてきたスーツケースにバナナのレコードが入っていることを思うと、初日よりかは背筋を伸ばして歩けた。もう孤独は感じない。

 美術館のチケットカウンターでうろ覚えのおじいさんの名前を言ってみるも、意味が分からないというような顔をされるだけでどうにもならなかった。さっき知り合ったおじいさんがここの会員らしくて、といったことを英語で伝えようと試みたものの、面白いくらいに通じず、通常料金を払って中に入る。さっきまでの自信が急激に萎んだ。先ほどまでの明るい気持ちに陰が射すのを感じながら中に進む。

 そして正直なことを言うならば、私は近代美術よりも、もっと昔の、いかにも絵画というような作品の方が好きだなと入ってから実感してしまった。明日はメトロポリタン美術館に行こうと、こっそり決心する。色々な作品を眺めながら歩いていると、やがて一つ、見覚えのある名前を見つけた。Andy Warholだ。バナナのレコードの右下に書いてあった名前。「Cambell’s Soup Cans」と名前がつけられたその作品には同じ缶が沢山描かれていて、ずっと眺めているとくらくらとした。缶の数を数えてみたら三十二個もあって、よく見てみると全てラベルの内容が違う。コピーアンドペーストではないのだなと、絶対に口に出してはいけないことを考えながらずっと大量の缶の絵を眺めていると、私もアートが分かる人間になったような気になった。

 

 帰りの飛行機はいくつか空席を残したまま離陸した。よく名前を聞くけど観たことがなかった映画を観て、うたたねをして、ニューヨークの時間を確認すると朝の七時。出発したのが深夜の二時で、以来空港の蛍光灯と飛行機内の暗闇しか知らなかったから、「ニューヨークの朝」というのがピンと来なかった。まだ五時間しか経っていないのに既にとても遠いところまで来たような気がする。日曜日の朝、ニューヨークの人たちは一週間で最もさわやかな時間を過ごしている頃だろう。日曜日の朝、夜明けを讃えよう。思い付きで来たわりには結構充実した旅にできたよなと、スーパーマーケットでバナナチップスに出会う前のみじめな自分を思い出しながら思う。バナナチップスが夜明けの合図だった。

 日本まであとどれくらいだろうかと、座席のモニターで世界地図を出す。飛行機は今アメリカ大陸を出ようかというところ。あと十二時間くらい。ぼんやりと世界地図を眺めて、日本列島ってバナナに似ているな、と思った。早く帰りたい。